Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

真理・真実・真相

 ものを考えるとき、または、情報に接するとき、私たちはそれが正しいのか間違っているのかを判断することができる。情報とは大きく分ければ、文字、音声、映像の三つに区別できるだろう。文字とは、言うまでもないが、印刷物であるが、最近は特に電子媒体が文字の世界を席巻している。これは音声についても、映像についても同様である。こう考えてもいいのだろうか。文字とは意味を受け取る人間が頭の中で積極的に構築する情報であるために、何度でも書き換え可能である。謂わば、積み木のようなものである。三角や四角の積み木を使って遊び、様々なパターンを作り上げ、より美しい造形を求めて、破壊と再生を繰返す。その一方、音声や映像は目と耳から自動的に入ってくる情報である。何度も何度も入ってくる情報は、いつしか、正しい情報として認知され、更に、判断の基準すらも揺るがすような大きなインパクトを持つようになる。

 情報には、真理と真実と真相の三つの区分けが出来ると考えてみたい。

 真理とは、例えば科学である。科学的知識とは前提と観察と条件と試行錯誤の末に得られた法則性の発見である。ニュートン万有引力の法則や、アインシュタイン相対性理論など、たとえ私たちの多くが、彼らのような思考の道筋をそのままに辿らなくても、その法則だけを享受することが可能な性質の情報である。その情報を基に何らかの理論を構築する訳だから、仮にその法則が間違っているとしたら、または、法則の解釈に混乱があれば、理論の価値や妥当性や信頼性も、同じ速度で崩れ去ってしまう。科学的真理とは、脆く崩れやすい性質を持つ代わりに、応用が利きやすく、現実世界に大きな変化をもたらす発展性を秘めている。

 嘗て、科学とは宗教であり、宗教とは科学であった。近代合理主義が16世紀になって登場する以前は、神の存在は絶対であった。天体の動き、潮の満ち引き、天候や気候の変化、雷や地震や台風の仕組み、雲の流れなど、身の周りで起きている自然現象について、神の介在を想定した。其処にあったのは、知的好奇心と畏怖であっただろうと思われる。絶対に人の手によって触れることのできないものが存在すると、確信していたに違いない。則を超えてはならない、規範を無下にしてはならない、道理を弁えねばならないとったような、遵法意識が働いていたのかも知れない。野心と畏怖を根本に据えた遵法意識は、現代社会に於いてすらも注目されるべきだろうと期待しているのだが、どうだろうか。

 真実とは、真理に比して、曖昧模糊とした人間的観念であることに異論はないように思う。たとえば人間の感情とは、真実の多面多層さを物語っている。感情とは、そのまま体に表現することができない。顔面の表情や話し方や仕草とは、感情を類推するための有効な手掛かりにはなるものの、そうした観察を全て総合して纏め上げたとしても、きっと被験者の感情の根本的な真理は分からないだろう。それは先程述べたような科学的「真理」ではなく、文学的な「真実」に留まると思う。

 何かのきっかけで怒りが生じ、その瞬間までに存在していた想念や観念を滅却し、純粋に「その」怒りのみを心の全体に充満させ、「その」怒りを増減させることなく、「その」怒りの量と質をそのままに、全身を使って、的確に表現し、相手に攻撃を加える人間は、実際の所、極めて珍しいのだ。私たちの発する怒りは実のところ迷いや誘惑や慮りが入り込んでいる。

 怒りを肉体で表現する人間は、血の気の盛んな格闘家や武闘家を連想させるが、日々の暮らしの中で出会う、「真に怒れる者」とは、人間よりもむしろ犬や猫や鳥や魚や昆虫たちである。動物や昆虫たちの様子を観察することで、怒りの爆発がどのようにあるべきかを私は知った。人間が敵わないのは、彼らの純粋な攻撃性である。人間性と攻撃性について考えることは、理性と感性の対比と同じくらい大切な問題だと感じる。

 怒りについて知ることは、身体表現について知ることである。怒りとは肉体や言語の表現である以上、やはり、藝術の区分に属せざるを得ない。藝術に真理はあるのか。それは分からない。難しい問いである。だが、こう問い直せばどうだろうか。私が思う真実の美とは何だろうか。これなら見つかりそうな気がする。そうか、私にとって、美とは真理ではなく真実であったのか。そう考えて、妙に納得してしまった。

 最後に、真相について。真相とは真理でもなく真実とも異なる。宗教に於ける教理経典や、物理学や化学に於ける法則のような絶対的な価値は持たない。文学に於ける心情の機微や描写の精確さや、造形美における意図と表現の一致のような相対的な価値を表している訳でもない。真相とは、新しい視点であり、新しい断面である。ジャーナリズムで頻繁に使われる言葉であるのは、報告する者の持つ物の見方が斬新であることを強調するためだ。最近惜しまれつつもなくなった『噂の真相』の元編集長であった岡留安則氏は、タブーに挑戦し、その真相を曝露して世に問うた。真相とは孤独と引き換えである。告発する者は嫌われ、弾劾され、非難轟々の中に生きて行かねばならない。孤独を捨てる心の強さと、迫害されながらも生活を成り立たせる為の強靭な体を、ジャーナリストは持たねばならないのだろうか。凄まじい魂が真相を求めるのか。幾分、真相という言葉にはドラマチックな、英雄的な色合いが交じる。

 真理・真実・真相。学究を志す者の歩む道は、いつもこの三叉路に別れていると言ってよいだろう。私はどのみちを選ぶのか、まだ決めあぐねているところだ。