Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

歯痛から考えたこと

 痛みとは、歯痛のことであった。ストレスによる心の痛みなどよりも、もっと接近した、居ても立っても居られない、なんとかせねばならない、医者に駆け込まないといけない、積極的に治療せねば悪化するだけで、自分の忍耐力ではどうにもならない、薬と医者の腕に全幅の信頼を置かねばならない、それこそが、痛みであった。

 私は昨日の朝、猛烈に痛み出した親不知の治療をして、今朝まで狂ったようにもがいていたのだが、何とか縫合部からの出血も収まり、痛み止めが功を奏して、今は安定期に入っている。有難いことである。今、ベランダに出て、御来光を拝み、ふと手を合わせたくなる衝動に駆られた。心の中で祈るだけにした。だが、祈りたくなったことは忘れまいとして、此処に記そうと思う。

 痛みとは、歯痛が代表的なように、まさに今この瞬間に到来するものである。親不知。それは、まるで啓示のように私に訪れた。痛みが到来した。痛みとは何たるかを、親不知が教えてくれた。鬱病双極性障害、不安症、トラウマについても、理解が深まったように思う。今ここに到来する痛みだけが、痛みであり、過去に到来した痛みについて考える必要が微塵もないことを教えてくれた。否、考える必要がないというよりも、考えられない程今の痛みが差し迫っているのである。 

 過去の病の苦しみ、痛み、辛い経験は、すべて記憶から成り立っている。記憶は生き物であるため、刻々と時間の経過によって、または脳細胞の老化によって、変化し変質している。脳は騙す、と言われるが、それはつまり、脳は記憶装置というよりも、劇作家であり、演出家であるということだ。脚色され、照明や音響の舞台装置によって効果が増大され、ある部分にスポットライトが当てられれば、その他の部分は暗闇になるために、まるで存在しない幽霊のように気配だけを感じ、または、死者の声として聞こえてくる。つまり、脳とは仮想演劇である。

 痛みも仮想演劇の一幕である。最もヴィヴィットな痛みは、今此処で感じている痛みだ。痺れ、眩暈、吐き気、頭痛、歯痛、腹痛、関節痛、倦怠感、圧迫感、寒気、神経の痛み、腫れなどである。病とは否応なしに受け入れざるを得ない現実的課題である。対処せねば命まで獲られる。これは意志と病の取っ組み合いである。ここに於いて、自己の問題が浮き彫りになる。この痛み、神経の発する電気信号、これは「私」であるのか。この痛みは、私が私自身に対して発しているメッセージであるのか。それとも、私自身を痛めつけようとする私ではない他者の意志であるのか。この痛みに意志は在るのか、ないのか。

 私は解剖学や生理学や免疫学についての知見をほとんど持たないので、どうしたってこの文章は、感想文以上の価値はないのであるが、それを承知で書き進めるが、痛みとは、やはりメッセージであると思う。誰から誰に対するメッセージであるのか、それは不明である。過去の私から現在の私に対する警告であるかもしれない。不摂生で不健康な生活の結果としてこの痛みが私に警告する。納得できる話だ。

 兎に角、痛みとは何とかしなければならない。四の五の言ってられない。今のように、「はて、痛みとは何ぞや」と呑気に考えられるのも、痛みが過ぎ去ってくれたお陰である。痛みは、来て、去る。去った後に、私は健康を感じる。現代人にとって健康とは恢復のことであると三木清は語ったが、その通りだと思う。痛みからの解放とそれに伴う恢復の悦び。もしこれから先、どんな痛みも訪れないのだとしたら、それはつまり、どんな恢復も味わえないことになり、遂に私は健康ではなくなるだろう。痛みの不在とは、健康ではなく、幸福であるだろう。

 もっと大胆に、端的に言ってしまえば、病とは快楽と同義である。脳機能的に言えば、同じエネルギーが発散されているのだ。これは体感的にも分かる。私は半年前に足を挫いた時、全身が痺れるような激烈な痛みを感じた。苦悶の表情を浮かべながら、「痛!」と叫んだ瞬間に、不思議な事に、ケタケタと笑ってしまった。自分の情けなさ、愚かさに笑ったというのもあっただろうが、単純に可笑しかったのである。痛みと快楽は同時に到来する。泣き笑いという現象も、哀しみと歓びが同時に到来して混乱しているのではなく、哀しみも歓びも同質の感情であるから、むしろ自然な現象であるとすらいえる。ただただ泣く、ただただ笑うというほうが、実際は相当の集中力を要し、難しいのかもしれない。

 それにしても、痛みとは面白い現象だった。痛みとは、不思議な現象である。痛みとは、過ぎ去った後も、はっきりと記憶に残るし、教訓として活きる。捻挫をした場所は二度と忘れない。ノートに書かずとも、脳にハッキリと刻まれている。あの時私は傘を持っていて、外は雨だった。革靴を履いていて、靴底が滑りやすかった。そしてあの窪みに雨水が溜まっていて、そこに足を突っ込んだ瞬間、グリッっとなった!そうだ、今でもこんなにはっきりと思い出せる。痛みとは、物語構造を持っているのだ。そして、痛みが到来し、過ぎ去っていくまでの間、物語は私に「覚えよ!」と言って、この痛みの意味を教えるのだ。

 こんな風に、意味とはいつも後付けなんだろう。亡くなった人の過ごした人生に対しても、残された生きている人々がそこに意味を与えて初めて成立するのかもしれない。

 

 補記

 歯痛と躁鬱病が同じなら、対策も同じはずだ。歯を磨く。深夜に甘いものを食べない。食べながらテレビを見ない、本を読まない。「ながら」を止める。毎日気を付けて口の中を覗き込む。ケアとは毎日の習慣から。心も同様である。