Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

物思う日々

 束縛と解放の関係は責任と自由の関係と同じであるか、少なくとも類似している。

 自分の判断規準に則って物事を選択することの大切さは、仏教者でも、キリスト者でも、神道者でも、全く同一である。即ち、求道者とは自己の格率を外部に依拠しないのである。法に則る時に、その法とは自己の内部で了解されている法である。

 「頑張りズム」とはプロテスタンティズムを基調とした資本主義のことであるが、それに気が付いたのはマックス・ウェーバーであった。

 過ちとは、全て過去に過ぎ去ってしまった一切の行いであるから、個人史を超えて、他者の失敗、または家の失敗、組織の失敗、集団の失敗、政府の失敗、国家間の失敗、極大すれば人類史から、その構造と因果関係を知り、活かすことが出来るのである。二万年の人類史について遡ることは、今この瞬間の私という個人の思想なり、常識なり、認識の機能にも、大きく働きかけることが出来る。その働きの媒介は言語である。

 翻訳本の有り難さはここにある。または母語習得の大切さもここに在る。

 所謂「メンタルが強い」とは、状況適応能力の高さのことだろうか。パラダイム・シフトや価値観の転倒が起きたときに、冷静に状況を見つめ直し、アナロジー(類推)によって事象を把握しようと努め、なんとかして自分と自分の周囲の人々が生き残るための対策を立ち上げることである。端的に言えば、生きている、目の前に座っている、あやふやな他者に依拠せずとも、心の中の法だけで満足する人間である。

 竹のような人間になりたい。天に向かって真っ直ぐであり、弾性があり、根がしっかりと張っており、その根はリゾーム型であり、竹林と己が一体となっており、雨風に強く、更に加工もしやすい。素晴らしい素材である。

祖母の名言。本は難しいのがいい。目的地には遠回りがいい。至言である。

運命というものは確かに存在する。どんな両親の元に生まれ育ち、どんな地域に暮らし、どんな学校を選び、どんな先生や友人を持ち、どんな社会即ち会社を選び、どんな同僚と仕事をするのかというのも、全ては運任せである。縁故である。それを祝ったり呪ったりするのは、人間の性である。

 これまでの全ては縁故であるが、これからの全ては私の掌の中にある。それは希望である。

 直観か推論か。このような二項対立ではなく、アウフヘーベンでもない、文脈主義とは甘えであろうか?無矛盾な認識の有り様とは、寧ろ、非人間的なのではないのかとも思うが、どうだろうか。

未決定な自己をそのままにすべきかどうか、それが問題だ。

 「なぜこれをするのか」という根本的疑義について、当面の間はこう答えよう。「お前がこれをする為の根本的・本質的・使命的意義とは以下の三つである。一つに独立した人間になる為であり、二つに両親を看取る為であり、三つに私塾を立ち上げて東北地方の地域社会に貢献する為である」

 本に書き加えるよりノートテイクすべきである。読書人とはノートテイカーのことである。というのも、書き加えてしまったら、人日本をあげるとき消すのが面倒だから。