Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

否定的定義の強み

 言葉や概念の定義を完全に終えない内は、どんな方法論も、認識の枠組みも、問題の解決も不可能であるというのは、論理的に正しく、実務的に間違っている。私が一体誰であり、何の目的と手段をもって生まれて来たのかを知らないままに、この両親の元に生まれてしまっているという不可逆的な、不可避的な、取り換えの利かない現実を顧みればよい。自分の名前すら、両親に(正確には両親が名付けを頼んだお坊様に)与えられたもので、自分で選び取ったものではない。私の名前は漢字二文字から成るのだが、一つはお坊様が、もう一つは父の父、私の祖父の名前から拝借したものだ。私の定義が私の名前であるとするならば、私の使命は、私の祖父の遺志を引き継ぐことだ。または、お坊様が私に与えた「尊」の文字についてよく知ることだ。「尊」とは何であるかを知ることである。

 なんでこんな話をしているのかと言えば、私はやはり定義が好きなんだろうと思うからである。定義とは面白い。私は無類の辞書好きである。それは言葉による定義が好きだからである。特に、英和辞典が好きである。英語を日本語で定義することが、単純に好きなのだ。和英辞典も好きである。日本という事象を英語によって定義すると、こんなにも違った断面図が見えるのかと、いつも感動するからである。人や物や事象や観念や現象や存在を言葉によって表現する、または、或る民族の言葉によって別の民族の言葉を定義する、それは単純に面白く、単純に興味深く、単純に深みがある。

  定義することは、果たして何によって可能であるか。それは経験である。経験から全体に対する大まかな枠組みが出来上がる。または、自分の能力の限界が見える。そこが、集合の際の際である。人間一般の生きる意味を探るのが聖職者であるならば、私は、私という個人の生きる意味を探させばなるまい。私の生活圏内に私の生きる意味は在る。私は立って歩き、眼を使って読み、口を使って喋る。私は日本の東京に暮らしている。だから、私の身体は限界があり、東京にも限界はある。無限に広がるのは空であるが、私の視野に入る限りの空は有限である。だから、空を見上げてもそこに在るのは空の一部であって空の全体ではない。雲が浮かんでいる。私はその雲の行く末を見届けることができない。というのも、空が余りにも広すぎるからである。私の視野に雲がやって来て、一定の時間だけ私の認識の枠組みに侵入し、知らない間に雲は去っている。私の有限性の自覚とは、私を定義する際に不可欠な認識の出発点である。

 私は果たして有限である。深淵なる真理に到達することは、そもそも不可能であることを知るという事は、有益なる失望を与えてくれる。なぜ有益であるのか。それは私が無理矢理体を引き裂く必要がないことを教えるからだ。私は無限に本を読んで考えたり、音楽や映画を鑑賞して内省したり、思索や瞑想を通して愛と美の直観力を鍛えたり、一言で言えば修業をする必要がないことが分るからである。人生が有限である以上に、喩え人生が無限に長かったとしても、私個人の認識能力は有限である。千年万年生きようと私の持って生まれた能力の限界を突破することは不可能であると思う。では、なぜ失望する必要があるのか。この失望は気分的というよりも実存的である。何も知ることなく消滅する自己を、己で命を放棄することなく、それでも尚鍛え続けなければならないからであり、私の認識能力の最大値とは、この課せられた使命が何であるのかを問い続けるための焦燥感、切迫感、失望感、空虚な気持ちだけであるからである。失望とは、私の知性が為しうる最善のものであった。だが、まだ絶望はしていないのである。失望を絶望に変えないために必要なものは、神仏への帰依心であるか、科学への信仰心であるか、他者との親交であるか、宇宙観、自然観、いずれにしても聖なる存在への傾斜である。

 定義について、社会学者の大塚久雄氏が面白いことを言っているので引用したい。

 

・・・・・・たとえばヴェーバーなんかにしても、彼の理論の一番基礎にあるフォルマ―ル(形式的)とマテリア―ル(実質的)、これはそういう公準概念というべきものでしょうが、あれだけ定義好きの彼が、その定義をほとんどやっていない。むしろ、間接的にしかやっていないといった方がよいのかも知れません。が、それはそのものずばりの定義が要らないというんじゃなくて、おそろしく困難だからじゃないんでしょうか。たしかに、そういう公準概念がまず一義的に定義されていて、はじめて、理論がシステムとして展開されることが可能になるんだ、ということは、これはすでにでき上がったシステムについては確かにそのとおりなんですけれども、研究の進行している過程ではそれが逆でね、基礎的な概念には最後まで定義の上で何かわからぬところが残されるのではないでしょうか。(p. 48『「甘え」と社会科学』大塚久雄川島武宜・土井健郎. 1976年. 弘文堂.)(太文字部は引用者による)

 

 本著は、精神医学者の土井健郎氏による、今も尚一級の日本人論として読み継がれている『甘えの構造』を巡って、比較社会経済史の泰斗であった大塚久雄氏と、法社会学の権威であった川島武宜氏と、そして著者の三人による討論の模様を記したものである。その前半に於いて、川島氏は、定義についてかなり踏み込んだ発言をしている。社会学の研究に於いての用語の定義の一義性について、土井氏と意見を異にしている。そこに大塚氏が仲裁役のような形で、先に引用したような、経験論的な定義の在り様を挟み込んでいる。私は、このような議論における平和的な仲裁の入り方に大変感動し、また、定義問題は学者のみならず、考える人間なら誰しもがぶつかる問題であるために(そして今私が現在ぶつかっている問題であるために)曖昧さを回避するのではなく、むしろ敢えて受け入れようとする鷹揚な態度に感銘を受けた。

 困難な定義を回避し安易な実利を獲る、というような卑怯な行動様式にも思われるかもしれない。学者の誠実さは一体何処にあるのか、または何処から来て、何処に現れるのか。私は一時期、文学者になる事を志したが、その時に到来した問題はまさに此処である。誠実な文学者という存在が在り得るのかという大問題である。社会科学に於いても、自然科学に於いても、人文学に於いても、またアカデミズムから離れた実務の現場に於いても、つまり、工場や病院や学校や施設やオフィスに於いても、誠実であるとはどういうことなのだろうか。それは、私の人生を考えるうえで最も大切な事であり続けている。

 誠実さとは、己の有限性を自覚することから始めなければならないと感じる。また、己の有限性を自覚しつつ、それでも尚その有限性を最大限に発揮するような思索なり、行動様式の確立なりを達成する義務があると思う。更に、己の能力に見切りをつける時、俊敏になって、恥と自負心と見栄を捨て去り、協力者、支援者、家族や友人や知人にSOS信号を発信することも必要である。誠実であるためには、正直である必要がある。だがしかし、何時でも正直であるからと言って、彼が誠実であるとは限らない。正直さが求められる場面で、正直になればいいのである。誠実であるとは、誠実でないことを知っている必要があるが、誠実であることと誠実でないことの明確な区別は大変困難である場合がある。その場合は、即断独断するのではなく、ゆっくりと議論を交わしながら、民主的な議論で決定を下さねばならない。ここに於いて漸進主義的になるのは仕方ない。誠実とは、得難く、失われやすい。誠実とは、他者からは「信頼」というマーキングを与えられる。自分自身には、しかしながら、もっと否定的な評価が為される。つまり、誠実でないことを少なくとも避けようと努めて来た、くらいの評価である。誠実さとは謙虚さも含む。また、誠実さとは、公平無私であることと同義であるから、自己評価に関心がないどころか人物評価にすら関心が気薄である。誠実でないと思われる人間に対しても怒りを覚えたり、罰を与えようと思わない。または、自分の不完全な仕事に対しても、不真面目な性格や気質に対しても罪を感じない。誠実な人間は、滅多な事では怒りを感じない。それは管理能力に優れている訳ではなく、認識の判断、価値の判断、美醜の判断の根底が抜け落ちているからである。つまり、誠実とは清らかさである。もっといえば、誠実さとは無矛盾ではない。誠実さとは状況依存的である。誠実さとは、論理的というよりも超論理である。誠実さとは、感性と理性の融合である。だから、得難く、失いやすく、移ろいやすく、儚い。誠実の実存は魂の存在である。誠実さの体現は、魂の体現である。魂とは良心である。良心とは無意識である。または攻撃性でもあり、情念であり、センチメンツであり、愛と美の直観である。要は、分からないものである。分からないから存在しないわけではない。ここら辺が説明不可能性、再現不可能性と呼ばれる所以である。あるといえば嘘になり、ないといっても嘘になる。それが魂であり、誠実さである。不可思議なものである。

 定義とはありとあらゆるものを含まなければならないが、定義した瞬間に、集合から零れ落ちるものが出てくる。川の流れ、雲の行く末、空に走る雷。諸行無常という言葉すらも、事の実態を完全無欠に表しているわけではない。あくまでボンヤリとしていて、曖昧で、揺れている。定義とは、肯定文ではなく、否定文で表されるべきであると考えるのは、この仏教観から来る。