Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

新しい習慣のために

 新しい習慣を身に着けるためには、古い上着を脱ぎ捨てねばならない。過去の文化を切り捨てねばならない。だが、一度切り捨てたら最後、もう二度と手に入らないものもあるだろう。新しいものが古いものよりも優っているとは限らない。ここに於いて、善悪の判断規準をどこに置くのかが大問題になってくる。

 絶対悪の習慣があるとすればなんだろうか。女装癖は絶対悪だろうか。否、絶対悪ではない。私はドラッグクイーンの文化を知っているからである。または、東大教授の安冨歩さんのことを知っているからである。

 酒や煙草などの嗜好品は絶対悪だろうか。否、絶対悪ではない。強いて言えば不必要である。不必要ではあるが絶対悪ではない。法律でも禁じられていない。

 怠惰は絶対悪だろうか。否、絶対悪ではない。怠惰は、傲慢・憤怒・嫉妬・強欲・暴食・色欲と並ぶ、キリスト教七つの大罪の内の一つである。キリスト教西洋文化の中心的な倫理規範であり、日本には1549年に聖フランシスコザビエルによって伝道されて以来、「日本教」(山本七平氏による日本独特の宗教観を称したもの)に取り入れられてきた。文化的な視座に立てば、神仏習合の日本が優れているのか、一神教キリスト教が優れているのか、その判断は避けるべきである。絶対悪でもなければ、絶対善もない。相対的な善悪に留まるに過ぎない。そして、何より重要な事実は、私が今現在、洗礼を受けておらず、キリスト者ではないということだ。

 文化論と善悪二元論は食い合わせが悪い。前者は絶対的な相対主義を貫き、後者は絶対的な二元論に落とし込もうとするからだ。かと言って、弁証法的な解決も安易な惰性である。手詰まりである。

 私の内部に規範意識はあるのだろうか。私は、朝、独りで川沿いを散歩する。川沿いの遊歩道にはベンチが設置されており、背面に花壇がある。そこに花が植えられていて、壁には網が掛けられていて蔦が絡んでいる。其処に座って、ヘッドホンを耳にあてて音楽を聴く。煙草を取り出して火を付けようとする。が、携帯灰皿を持って来てないことに気が付き、一瞬躊躇する。どうしようか。この瞬間、私の中に規範意識が芽生えている。煙草の灰をばらまいていいだろうか、この景色を見ながら煙草を吸えば気持ちいいだろうに。判断は一瞬である。その時、おおらかな気持ち、謙虚な気持ちがあれば、止めるだろう。苛立った気持ち、卑屈な気持ちが優っていたら、吸うだろう。規範意識は、それだけでは私を束縛しない。まさに良心の声とは規範意識のことだ。これに賛成すれば、なにか守ったような気分になり、反対すれば、なにかを失ったような気分になる。

 私は、きっと気分に支配されているのが気に喰わないのだろう。気分からの自由を享受したい。だが、その自由と引き換えに、規範意識よりももっと大きなもの、即ち、遵法精神を獲得せねばならない。遵法精神とは何か。それは、誰も見ていない、誰も聞いていない、誰にも知られないような状況に於いても、世界中でたった一人になっても尚、法に従って暮らす、生の在り様である。法の正当性や根拠に対して、いくら不平や不満が生じようとも、決して従うことを止めないことである。崇拝の念だけをもって、幻想を実在を見做し、観念的な生活を選び取る態度のことである。宗教者と呼ばれる人々の暮しである。

 ここで問題となるのは、程度問題である。例えば、ある特定の宗教宗派を選択し、組織に参加し、生活を共にするくらい深入りするべきなのか。共感的な態度で傍観するに留まるのか。信仰を告白するべきなのかどうか。家族や友人に対する態度はどう変化するのか。ここら辺の、具体的な文脈を以て問題を考えないと、先に進まないだろう。

 また、宗教選択と習慣選択を同一視することも控えねばならないだろう。何の宗教にもシンパシーを抱かず、政治や経済にも無関心で、何の思想や哲学にも興味を示さないままに、日々を過ごしている人々を想定することは、原理的には可能である。「選ばない」ことを、人間は「選ぶ」ことができる。敢えて言えば、無の思想、無の哲学である。テーラワーダ仏教などはこちらに属するのだろうか。選ばないという選択肢を選ぶにせよ、行為態度を問わず、何らかの体系を選ぶことに変わりはない。

 楽観的な態度は悲観的な態度を排する。悲観的な態度は楽観的な態度を排す。仏教は非仏教を排する。キリスト教は非キリスト教を排する。常識を選ぶことは非常識なものを切り捨てる。文化を選ぶことは未発達で未分化の状態を排す。歴史を選ぶことは歴史化されていないものを排すことだ。選ぶことは、つまり、それ以外の事象を切り捨てることである。切り捨てられたものの中に、実は、自分が真に望んでいたものが在ったのかもしれない。その可能性を切り捨てることが、即ち、選ぶことである。私が選んだものは、実は「はずれ」で、選ばなかったものに「あたり」が入っていたのかもしれない。

 これは確率論であろうか。統計的なものであろうか。私の確信や希望や願いも、統計的なデータに置き換わってしまう。それは仕方ないことだ。社会学とは本来そういう非人間的な思考態度を持っている。自殺の統計や交通事故の傾向性を考える時、個々の事案を詳細に観察していたら、心が折れてしまうだろう。数値化すれば、痛みは幾分、捨象される。痛みに耐えるために、数値化し、データ化し、チャート化する。そして、悲劇を繰り返さないために、システムの再構築を図る。それが確率論であり、統計学であり、社会学である。

 私に足りない視点は、宗教的な観点というよりも、社会学的な観点なのかもしれない。自己観察記録を、定点的に観測する必要があろうと思うからだ。習慣を変えるにしても、現在の習慣の在り様が分らなければ、方針が立たない。客観的に自分の生活を観察する。その基軸を仮定すれば、①生理学的側面(食事、排泄、運動、沐浴、睡眠、投薬、通院)、②経済学的側面(家計、アルバイト、就職活動)、③社会学的側面(恋愛、家族、友達、先生)、④文化的側面(掃除、学問、趣味)の四つであろうか。

 平面的に捉えれば各々を頂点とした長方形や正方形を、立体的に捉えれば、たとえば①②③を正三角形の底面として④を頂点とした三角錐を、想定することが出来る。

 今の私にとって最も大切なものは、やはり、①そして②であろう。特に①についてもっと自覚的にならねばならない。薬を飲み忘れたり、運動不足になったり、食べ過ぎたりと、何らかの要素が過剰だったり過不足だったりしている。しかもなかなか改善しない。自覚が足りないのもあるだろうが、恢復しきっていないのかも知れない。いずれにしても、もっとセルフケア能力、自己再生能力、自己観察能力を高める必要があると思われる。

 生理学の知識と活用を生活の中心にしてみよう。すこしだけ、頑張って見ようと思う。