Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

死について

 死のことについて考えるという行為は、必ず、言語的な抽象が伴う。死とは、根源的な分からなさ、即ち、自己の内部に潜んでいる空洞である。そこには何もない。何もないことを理解することは、実は、大変困難なことである。零の発見は偉大だったという。数学史について勉強したくなった。それについてはまた次回以降に論を待ちたい。

 死を考えるとは、零について考えると言った。つまり、正の数(整数)と負の数の間の空間を指すのである。否、一と二の間にも零は存在する。マイナスとマイナスの間にも零は存在する。集合論に於いても、空集合(Φ)という概念がある。こうした数学世界における空気のような存在が、零(またはΦ)であるのだろうか。

 では、この現実世界、この目の前に広がる表象空間、実存的世界における「零」的要素が、死ということになるのだろうか。私の意識世界においても、広大な無意識の世界が拡がっているとされている。フロイト精神分析学である。そこにも死は顔を覗かせている。無機質なものに回帰しようとする本能(欲動)がインストールされている、という理論(物語)である。私は、耳学問でその概要を知っただけであるが、大変驚いた。容易に説得されてしまった。説得力のある話だと思った。

 仏陀の世界観にも、私は容易に説得された。現象とは全て幻想であり、実体は無い。存在するのは感覚だけである。なんと!それは全く説得力のある話だった。

 残念な事であったが、聖書の世界観にはあまり感心しなかった。世界は唯一神によって創造され、神に似せて人間が創られた。御伽噺としてなら面白く読めた。

 驚くべきことであるが、私の内部には、納得するものと納得できないものとを区別し、判断し、分別する根本的な規準が既に在るということだ。それは、規範精神などではなく、ほとんど日常的な指向性と呼んでいいだろう。または、もっと卑近な例を挙げれば、常識的な感覚に近い。雨の日に傘をさそうと思う程度の話だ。それくらい、当たり前すぎて疑うことすらしないようなことだ。寿司を食べるのに醤油と山葵を付けるように、ラーメンを食べるのに蓮華を使うように、散歩するときにヘッドホンを付けて音楽を聴くように、全くの習慣の産物である。

 習慣を疑うとは、だからこそ、知的な愉しみであるし、また、習慣から逸脱しかねない危険性を孕んでいるのである。人間は習慣の奴隷であると同時に、新しい習慣を身に付けようと努力することができるという意味で自由民である。または、古き良き習慣を堅守し、保守し、死守し、継承し、伝統的価値にまで高めようと努力することができるという意味では、歴史の奴隷である。だが、今度は歴史とは何であるのかを己の力で探求しようと努力するという意味に於いては歴史から解放されている。とまあ、このように、奴隷状態と自由状態を往還しながら、絶えず変化を求めて、這いずり回っているのが人間なのだろう。その意味で、人間とは、昆虫と同じくらい、可愛らしいと思う。

 死の話に戻ろう。死について考えると、ありとあらゆる抽象・具象の話がわんさか出てくる。それはもう止めどないくらいである。これこそが、死の誘惑である。死の誘惑から敢えて目を背け、一個人が直面している生活の課題や困難に気持ちを向けさせるのは、意志である。意志とは即ち、死の誘惑からの逃避である。逃避とは、この意味に於いて、勇気ある撤退と言いたい。戦場に於いても、死ぬと分かっていながら無謀に兵を送り出すのは、大馬鹿である。それは、勝利を捨てて、大義を獲るような行為である。ここに於いて、勝利の価値と大義の意味が問われている。

 死を考えることを至上の価値としてしまえば、私は、どうしたって世俗的な営みを放棄しなければならない。それは、父や母を捨て、先生や親友を捨て、故郷の土を捨て、故郷の山や川や空を捨て、地縁や親縁を断ち切り、己の持ち物を捨て、持っていると自覚するありとあらゆるものを捨てる覚悟と引き換えに、得ることができる、特殊な生活様式である。聖と俗を区別するのは、単純に、この生活様式の根本的な差異である。聖者は死を日常の根本に置き据え、凡夫は生を日常の根本に置き据える。

 ところで、聖者でも凡夫でもない人間とは誰であるか。それはまさに、フリーターやニートやひきこもりや被差別民やホームレスや独居老人である。ありとあらゆる意味で社会的なネットワークから零れ落ちてしまっている人々である。家族からも煙たがられ、仲間からも見放され、定職を持たず、住まいを転々とし、日常的に軽蔑され(少なくともその実感があり)、行政に携わる役人たちからも気が付かれないような人々である。こう言っていいだろうか。彼ら彼女らは、見過ごされている。存在しているのかしていないか、自分でもその実感が持てない。まるで自分自身が空集合(Φ)になってしまったようである。人間関係が全体集合だとすれば、私はそのどの範疇にも属していない、または、どの範疇に分類されても要素としてカウントされない、つまり空集合だ。そういう感覚が日常的な常識にまで浸透してしまったような人間が、現在、日本に限らず世界中に居るんだろうと思う。

 死を考えるとは、個人の内部について考えることであると同時に、地域や社会の構造について考えることであり、抽象的な話から個別具体的な話を結びつけるようである。死とは、不明である。私の所有物のようであり、私の支配人のようである。死とは言語的構築物のようであるが、明らかに、死とは死体であるので、どこまでも物質的な質量を持っている。死とは機能不全であるのか、目的の完遂であるのか、死とは手段であるのか、目的であるのか、死とは生の逆説的真理であるのか、単純な生の否定であるのか。死とは、根源的に理解不能な現象である。私に最も近接する他者である。死とは他者である、のか。

 死とは警告である。死とは記号である。死とは代償である。死とは大義である。死とは無価値である。死とは恐怖である。死とは言葉である。死とは善である。死とは魂である。死とは、ありとあらゆる解釈が可能なブラックホールのような、巨大な穴である。

 死んだ後、時間は、空間は、無くなってしまうのだろうか。死とは、ありとあらゆる関係からの断絶である。自己からの断絶である。考えている自己からの断絶であり、考えていない自己からの断絶であり、つまり、自己と非己(自己でない存在)の間に吸収される。やはり、死とは物理学の範疇である。空間や磁場や物理的な法則に則っているからだ。

 死とはテーマの源泉である。死について考えない小説家は居ない。

 今日も誰かが死について考えている。