Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

考えるとは、紙と鉛筆

 考えるとは、紙と鉛筆を使うことである。紙の上に鉛筆の先を滑らせて、文字や記号を並べることである。そこに現れるのは、思いがけない言葉であり、意味である。

 考えるとは、書くことであり、表現することであり、語ること、図示すること、定式化すること、説明することである。頭の内部では混濁している意識も、一度言語化されれば、たちまち意味を持ち、発話者はその言語の所有者としての責任者となる。語るとは、そのまま、責任を取ることである。説明ができることが即ち責任である。(responsibility 「責任」=response「返答する」+ability「能力」)

 それでは、文藝作品と呼ばれる文字の一群は、責任の欠落した言葉の綾であるのだろうか。小説には社会的道義的責任は伴わないのだろうか。表現の自由と道義的責任の関係について、私は、言葉のリアリティの問題について考えねばならないだろう。

 信仰心の篤い人間にとって、絶対的な真理は存在する。忠義を堅く守る人間にとって、絶対的な人間関係は存在する。特異な経験を持っている人間にとって、不可解で非日常的な事象は存在する。空想や羨望や希望を抱く人間にとって、理想的な生活様式や栄華の体現者は存在する。人間は小説的な動物であると三木清は言っている。

 自分の言葉で語ることを職業(生き甲斐)としている人々がいる。まず第一にラッパーであり、次に翻訳家であり、通訳者であり、劇作家、ラジオの構成作家、文芸批評家、著述家などである。または、医者、宗教者、裁判官、検察官、警察官、政治家、新聞記者、報道関係社会的、アナウンサー、ラジオDJ、落語家、芸人、観光ガイド、学校や塾の教師、劇場や博物館の案内人、公的機関の受付やサポーター、電話受付の対応士、自社商品の説明担当者、他多数の様々な業種における言語コミュニケーションが行われる際の専門的な技能が買われている一群の人々がいる。

 比較しても仕方ないが、ラッパーの言葉遣いと宗教者の言葉遣いは、違って当然である。それは語り手と聞き手(オーディエンス)の距離感が異なるからである。宗教者と医者と教師と政治家は、全て「先生」と呼ばれる職種である。そこに既に序列がある。作家も大御所になれば先生と呼ばれる。言葉遣いは社会的立場を如実に反映する。そこには「○○らしさ」の問題が付き纏う。この「らしさ」こそが、小説的動物である人間を政治的動物に変質させるのだと思う。

 話が逸れた。言葉は単なる音に過ぎない。空気の振動か紙に滲んだインクの染みを、声や文字にするのは、様々な文脈である。誰が、何時、何処で、どの様に、どんな意図をもって、誰に対して、どんな思いに端を発してそれを語ったのかが問題になって来る。所謂「東大話法」と呼ばれるものは、このような言葉の重みを消失させ、文脈フリーにしてしまい、その結果、責任者不在でも語ることのできる特殊な話し方である。そういう特殊なものを除けば、基本的には、どんな言葉にも文脈が貼り付いており、その意味は文脈によって規定され、固定化し、独自の意味とニュアンスを持つ。そして、その話者には、その言葉をその文脈で語ったことの責任が発生する。責任を回避するような話し方は、その人間の置かれた状況に対する興味・関心の希薄さを物語る。「知らない」「どうでもいい」「好きにすれば」という言葉には、「どうせ他人事だから」という認識が明確に読み取れる。

 人間関係に於いて、全く何のかかわりもないような事象は存在しないと言ってよい。特に今はグローバル化時代なのだ。目の前の商品のどれを選ぶかで、地球の将来が決まってしまうような時代だ。選択が未来を作るとは、広告の宣伝文句であるが、事実である。こう言い換えてもいいかもしれない。言葉遣いが人間関係を作る。人間関係とは言語的な構築物である、と。

 実在する人間同士の会話を重点に置けば、彼は評論家になるだろう。虚構の人間同士の会話を創作すれば、彼は作家に成るだろう。言葉遣いは、世界(世界観)を創るのである。