Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

勉強するとイヤらしくなる

 勉強するとイヤらしくなる。勉強とは、純粋な自我を、複雑で、奇妙で、猥雑な総体へと変化させることにほかならない。勉強するとは、否、学問的になることとは、その純粋な形式では、未知なる領域へと自己を歩ませる大胆さであるが、実際の所、過去の人びとの失敗を馬鹿にして、自分はそんな馬鹿なことをする訳は無いと思いあがるだけである。昔の人は馬鹿だったんだなと、一笑に付して、自分も同じ穴の狢だとは終ぞ気が付かないのだ。否、私の中に、既にその卑しい根性が潜んでいるのを感じる。

 高卒は中卒を馬鹿にし、大卒は高卒を馬鹿にし、修士は学士を、博士は修士を、有名大学の博士は地方大学の博士を、海外の大学の博士号を持った者は、日本国内の大学の博士を持つものを、馬鹿にする。要するに、学問をすればするほど、自分が偉くなったような気分がする。断じて、そんなことはないのに。寧ろ、博士号など、明治の頃ならいざ知らず、令和時代に於いては、左程の威厳も備えていないのだ。それにもかかわらず、私は、いまだに自分の学力をひけらかそうとしている節がある。なんとも情けない。

 勉強すればするほど、工夫しなくなる。強いられることを拒否するようになる。なにか楽な方法はないかしらと、狡猾な(crafty)手段を探そうとする。そうやって、相手を出し抜こうとばかり考える。また、愚鈍で実直で真面目な人間に対して無礼な振る舞いをする。あいつは馬鹿でのろまだと。上手いやり方を知らない、非生産的で、非効率で、勝算のないやつだといって罵る。口に出さずとも、心の中で、蔑む。私は、そのような性根の腐った野郎どもを、いつか白日の下に晒してやりたいと思う。お前の罪は、勉強したことだと。お前の努力はすべて間違っていたと。お前の性根の悪さは、どんなに努力しても決して剥がれ落ちることはない、と。無学と無知ならば、無学の方を信じたいのだ。自分のことを賢いと考える無知者は、何も知らないことを恥ている無学者よりも、何百倍も、人格において立派であると、私は言いたい。

 勉強しながら、人格を鍛えられる人間は、昨今、稀である。人格しか優れていない人間は、しかし、いつでも知力を鍛えることができるから幸いである。私は、自分自身に限って言えば、まずなによりも、体力と精神力を鍛える必要があると思う。それは、一言で纏めれば、回復力と意志力に他ならない。それがあって初めて、道徳観念やら、倫理観やら、世界観なりが築き上げられるだろう。自らの手で性根を矯正すること。それが、なによりも求められる力である。