Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

ペルソナと近代人

 簡潔に、判りやすく、個別・具体的に話す人が居るとして、話す内容はいざ知らず、彼・彼女の分かりやすい話し方を以て「智慧者」と見做していいものだろうか。分かりやすい話し方とは、子供相手の話し方に他ならない。それでは大人同士の会話とは、どうあるべきなのか。否、私は大人同士の会話を見聞きしたことが生涯に一度でもあっただろうか。

 大人は、概して、美辞麗句よりも損得勘定で動く。損得勘定なら話は早い。乗るか反るか、やるかやられるか、潮目はどちらにあるかこそが問題だ。現実の流れを見る眼があれば、話すための口は最小限度でいい。または、両者だけが理解し合える専門用語だけでいい。略語、隠語、ローカライズされた特殊話法などは、日本に限らず世界各地の大人社会に広く見られる。所謂「業界」というやつだ。では、業界用語を使いこなす者は、大人と見做していいのだろうか。

 その大人社会ですら、簡潔で判りやすく個別・具体的な話し方が尊ばれているそうだ。話し方どころの騒ぎではない。身の振る舞い方、衣服の着こなし方、食事の作法、名刺の差し出し方、ビールの注ぎ方にまで、事細かい決まり事が尊ばれていて、それを極めないことには社会人として見做されない。要は、大人として見做されるかどうかが問題なのであって、その内実は然程重要ではないのだ。

 噛み砕いた話し方しかできない人は、やはり、知的貧困者だと思う。適当な時に、適当な場所で、適当な話し方を選択することが出来るようになろうと、何故誰も言わないのか。きっと面倒なのだろう。分かりやすさを唯一無二の根本原理にすれば、話し方の使い分けを考えなくて済む。使い分けるとは、ペルソナ(仮面)を持つことでもある。大人社会が幼稚化しているのだとすれば、ペルソナ(仮面)が見え透いていて、お粗末になっているのだろう。私達は、とりわけ近代人は、演じ分ける技術を忘れてしまったのか。子供に対する接し方、大人に対する接し方、老師に対する接し方は、異なって当たり前だ。

 子供は大人を軽蔑することに慣れてしまった。大人は子供に追従することに慣れてしまった。躾とは専ら愛玩動物に対してのみ有効になってしまった。近代教育の限界点があるとすれば、このような倒錯した状況においてだろう。言葉は意味を為さない。

 正しいことは子供でも分かる。分かりやすく言えば馬鹿でも分かる。子供でもなく、馬鹿でもないと見做される人々に向かって何事か興味をそそられるような噺を話そうとすれば、自然、ある一面から見れば全然間違ったことや、一見すると分かりにくいこと、誤解を招きかねない表現、逆説的真理などを語ることになる。子供でないとは、正しくないことを受け入れられることであり、馬鹿でないとは、一から十まで言わなくても、行間から滲み出てくる雰囲気から、言わんとしていることを推察できることだ。意見と事実を区別できることだ。自分の判断で、善し悪しが付けられるということだ。自分の言葉で置き換えて理解することができるということだ。

 分かりやすさとは、既に一個の罪である。そのことは覚えておきたい。