Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

絶食の愉楽

 アルバイターである私がいつも途方に暮れてしまうのは、午前中の過ごし方についてである。何もすることがなく、何処に行く宛もなく、乗るべき電車の到着時刻もなく、ただリビングの机を前にして、ぽつねんと、ひっそりとしているだけなのだ。

 必要は発明の母というがまさにその通りで、必要が先にあるから、工夫が生まれ、工夫が組み合わさり、更に偶然が作用して発明が生まれるのだろう。仕事する必要があるから、朝から元気に体を動かす必要もあり、朝ご飯を食べる(または敢えて食べない)工夫があり、洗濯や洗い物を前日の夜中に済ましておく工夫があり、TVを点けて天気予報や巷のニュースを知るという新たな「必要」が生まれるのだろう。私に必要なものは、工夫するための「必要」である。絶対的な、独断的な、覚悟や使命に近い「必要」である。そうせねば気が済まないからするのであるような「必要」であり、渇望や執着とは異なる、中性的な行為目的である。

 仕事とは必要である。というのも、働かねば食べていけないからである。食べないとどうなるのか。一日二日はどうってことない。私は少々肉付きが良いので、カロリー計算上、水とビタミン剤だけあればニヶ月余りも生き延びられるみたいだ。(一日の消費カロリー2500kcalとして、体重90.5kg、体脂肪率26%、体脂肪が23kgあると仮定した。体重1kg辺り7000kcal持っているので、23*7000/2500=65.84...)

 本当にそうか。果たして私はニヶ月も何も食わず生きることができるのか。絶食とは試して見る価値がある。私自身の可能性、生存欲求の高さを体感するための試みとして面白いかもしれない。

 水とビタミン剤以外、何も摂取しないのを限界ギリギリまで、どれくらい耐えることができるのか。

 私は、これが無謀な挑戦であることを知っている。だが、同時に、このような遊戯に興じることが、今の私を生かすための必要条件になっているのだとも思う。生活とは、活き活きと生きることである。活力が漲り、生が跳躍する。それが生活であり、生きることだ。朝から夕方にかけて何もすることのない私には、無謀な挑戦くらいが適度な緊張感を自らに与えるためには必要なのだ。