Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

毎日面白くなくていい

 毎日面白くなくていい。毎日辛くて大変なのも嫌だけど、かと言って毎日お祭り騒ぎみたいなのはもっと嫌だ。毎日天国がいいか、毎日地獄がいいかと問われたら、予想を裏切って地獄派の人が圧倒的に多いと思う。私も地獄の方を選ぶだろう。地獄には変化がある。天国には変化は無い。私のような人間は変化が無いことに耐えられないのだ。幸福に耐えられない。幸福とは安全である事であり、安定した社会を営んでいる事であり、健康的な食事を摂取し、健全な肉体を有していて、毎瞬間毎瞬間、隣人愛が花開いているような地域に暮らしているのだ。驚く事も、恐怖に身悶えする事も、悲しむ事も、恨む事も、嘆く事も、後悔する事も、自責の念に囚われる事も、此処には無い。

 私の思考は両極端を想定する事から始まる。生活について考えるのならば、天国と地獄を先ず考える。そうしないと落ち着かないのだ。議論が浮つくのだ。定位置を定めない事には、何も始まらない気がして、そちらの方に気が散ってしまうから。だから、私にとっての幸福な生活とは、天国と地獄の間に拡がる中間地帯の何処かに在る。まずは全体の領域を制限しない事には、方法も目的も見つからない。

 要するに、私の現実感は、両極に聳え立つ観念の構造体によって支配されているのだとも言えよう。これは仮説というよりも実感である。対象として科学的に考察するには、余りにも情緒的で、混乱していて、存在論的な疑いの残る疑念である。私は何かの間に立っていると感じるのは、きっとニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」を聞いてしまったからだろう。私は最近その種の講演や番組を頻繁に観るようになったから、視聴覚メディアの多大なる影響を認めざるを得ない。そうだ、これは私の発見ではない、これは又聞きのさらに又聞き。翻訳され、重訳され、改訳され、改編され、現代語訳され、誤訳され、上書きされ、誤植され、大事な物が抜け落ちた後に語られた事だ。私は全ての原典に当たることが出来ないから、この無能さは仕方ないのだ。恥じる事すらも出来ぬ事だ。絶対に到達も獲得も認識も不可能な事は、諦めることすらも出来ない。

 私は、きっと何も生み出すことは出来ない。私が生産したと思うものは全て過去からの遺産の相続に過ぎず、私の情緒は全て誰かの情緒のほんの一部に過ぎず、私の記憶も私だけのものではなく、見知らぬ人々が恣意的に書き換える事のできる脆弱な代物で、私という個人も、私の記憶と同様に脆弱であり、大した価値も役目も備わっていない。これは紛れもない事実性のある認識だ。そして、事実はいつだって私の味方なのだ。