Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

人生論(暫定版)

 人生とは何かについての暫定的な結論を下せば、即ち、循環の階層である。螺旋階段の比喩が最もしっくり来る。私は同じ事を繰り返し反復している様に錯覚しているだけで、実は、何も同じ行為などあり得ない。日常生活に於ける習慣的な行為ですら、その仕草や見方や姿勢や態度や関心は決して一様ではないのだ。立つ、座る、歩く、走る、息を吸う、息を吐く、珈琲を飲む、煙草を飲む、何かに注視する、何かを聞こうと耳を傾ける、何かに指先で触れる、衣服を身に着ける、髪を整える、髭を剃る、靴を履く、鏡の中を覗き込む。日常生活は行為の群れによって幾らでも分割できるが、その一つ一つの挙動は全て異なる。または、医学の見地からすれば、私の体の内部では既に老化が始まっている。昨日よりも今日は、感じられない速度で、まるで雲が流れるような速さで、しかし確実な速度と調子で、死に向かって一歩一歩、歩みを進めているのだ。何かが出来なくなって行く。体だけでなく心も同じだ。体と心を結びつける魂のような存在を想定したくなるのは、この現実から目を背けたいからだろう。死を恐れないためには、または死から己を遠ざけるためには、何かしら不死の存在が私の内外を媒介していると信じねばならない。それは、とても人間的な営みだろうと思う。

 魂の存在について、私は肯定も否定も出来る立場にない。だからそこ、そうあってほしいと祈る事が求められている。世界平和を祈る気持ちと、己の不死なることを祈る気持ちは、コインの裏表の様な関係だと思わざるを得ない。(左翼主義の不可解さはそれがオカルティズムと不可分の関係にあるからだろう)または、私は特定の政党を支持したい訳でもなく、宗教法人に所属している訳でも、無頼派を気取りたい訳でもない。無論、無神論者でもなく、独我論者でも、観念論者でも、汎神論者でもない。要するに、私はアイデンティティというものを、最早あまり信用しなくなったのだ。余りにも恣意的な言葉だ。近代的自我と呼ばれるものを、私は終に自分の中に見付けることが出来なかった。否、そんな話に興味が尽きた。飽きたのだ。

 何か、誰か、もしくは何事かに出会い、ときめき、浮足立ち、憧れる。そして、それを獲得しようと模索する。そうして、段々とそれに対しての興味関心が薄らいで行き、緊張感が解れて締りがなくなり、慣れていく。慣れは必ず飽きに連なり、もう取り返しの付かない地点まで飽きてしまったら、誰・彼・それは忘却の彼方へと消え去ってしまう。そうして、その対象は再び私の前に現れるまでの間、存在から非存在へと変化してしまう。この一連の関係は、どのような対象にも当て嵌まる。憧れて、慣れて、飽きて、忘れる。この循環から抜け出す人・物・事は、家族や親友や恩師や恩人、英語の勉強、ラップ音楽、ドラム演奏、故郷(H県、A県)、ニューヨーク以外に、私の中に存在しない。