Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

遊びとしての精神トレーニング

 問うことと迷うことは似て非なるものだ。前者には苦しみが満ちているが、後者には自己欺瞞の匂いが立ち籠めている。

 問いを止めることは一見自由な気分を味わえるが、長くは持続しない。迷いを断つことは大変な覚悟が要るが、長く持続する。詰まり、迷いを断ち、問い続ける覚悟を持つことを私は未来の私に求める。問いを掴んで離さない、しっかりと肌身に身に着け、執念深く探求を続けることが、やはり肝要だろうと思う。

 迷うとは、人から評される態度であり、実際のところ、人は見かけ以上に自信家である。高慢である。外見上の迷いと心の中の高慢が両立し得るのは、自分の事を振り返るだけで理解できる。

 迷いとは状態であり、問いとは動作である。迷う人は、自分が迷っているのかどうかすらも分からない、五里霧中の不安を抱えている。問う人も、手探り状態である事に変わりはないから、場合に依っては立ち止まって思案するしかない時もある。迷う人には救い主のような善人に遭遇し、彼(女)に付き従うことで容易に困難から脱出することができる場合がある。彼は父であったり、彼女は母であったりする。またはトモダチであったり、先生であったり、親戚縁者であったり、会社の同僚であったり、または上司、部下の縦社会を超えた恩人のような人間だったりする。何の脈絡もなく、偶然に知り合った人間から言われた一言がきっかけになって、大胆な挑戦を選択したという人は数限りない。

 問う人間は、それに比べて孤独を愛するような雰囲気がある。孤立無援の愉悦、葛藤を超克する歓び、または自己信頼を獲得するための過程として問うという行為自体目的化して、自己内世界に隠れ、自己愛に耽ることがある。問う人間は、どこか貴族的であり、自己完結的で、傲慢にもなり得る。大切なのは、問う人間は、この傲慢さと真摯に向き合おうとしているか否かの一点である。問うている自己と問われている自己の間に立つ観客の自己。この三者の関係を微調整する、より高次の自己。何より問われているのは、心身の丈夫さタフネスである。剛毅な人間でなければ、問うことを維持することは出来ない。無論、筋肉トレーニングがこれを鍛える筈もなく、スポーツ競技や芸術運動とも無縁である。この強度は、精神を如何にして鍛錬して来たかに(私の場合は)依拠している。

 イチローや松井や羽生善治岡本太郎は天才であるのは言うまでもない。最近で言えば、羽生結弦選手や藤井聡七段や大谷翔平選手も天才であろう。肉体も精神も生まれながらに恵まれた人間の存在を疑うことは不自然である。手放しで喜ぶべきことだ。そんな人間は滅多にいない。gifted「天賦の才能」の持ち主が、周囲の凡人からの同調圧力のために簡単に凡人以下にまで引き摺り降ろされるのは世の常だが、それに屈っすることなく、己の信ずるところに逆らうことなく歩みを止めないのは、二重の奇跡である。

 精神だけは異常なまでに強靭な人間に為りたいと思う。スピリット、性霊、心、ハート、肝っ玉、腹、気魄、魂、マインド、メンタル、脳、自我など名付けは取り敢えずどうでもいいが、一先ず「精神」としておくが、精神を鍛えることがとても興味深く、関心の対象として面白く、真摯に取り組めそうで、どんな瞬間でもそれを為すことができる、観念と実在を行き来する遊びだからだ。昨今、ジムで肉体改造する輩が増えたが、私は反対である。そんなことよりも精神を鍛錬したい。これは葛藤との闘いであり、自己との対話であり、極めて経済的で(というのも金銭は一切発生しないから)、誰にも悟られること無く始められ、方法は殆ど無限に広がっており、その報酬は最上級の満足感である。これは、恐らく、私がこれまで発見した遊びの中で一番遣り甲斐のある遊びだろう。

 

 精神のトレーニング。これは全く面白い遊びだ。

 

 迷うことも問うことも忘れてしまうために精神の鍛錬を求めるのは、とても自然なことだろうと思う。