Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

言語的表現を超えてーやはり、魂の実在は前提条件として想定するべきではないのかー

 ブログやTwitter、日記、ノートの紙面上で繰り広げられる懐疑精神の告白云々・・・とは、どこまで行っても言語的な表現活動であり、音の響きと文字表記の意味世界であり、それ以上では決してない。精密な論理の柱と梁を重ねても、やはり土台となるところの身体の健全性、情緒の安定性そして志向の妥当性が担保されなければ、やはり単なる露悪趣味か自由帳に書かれた落書きの類に終始するしかなくなるだろう。

 不定愁訴が長引いている。この症状は、秋風邪のように夏バテの後にどっと来る。しかも予後は人それぞれで、治療開始から数えて(仮に治療されなければ状況は悪化するか維持されるだけである)、少なくとも半年以上から一年間は要注意である。私は、まずこの症状を認知することから始めねばならないと感じる。精神的(この言葉が大袈裟ならば、精神医学的、脳科学的、臨床心理学的と呼んでもいいだろう。)な病の場合は特に、社会復帰という目標を掲げたリハビリテーションこそ要所であり、かつ甘く見られ勝ちな落とし穴である。

 精神的な問題は、兎角、ドラマティックな言葉遣いで描写され、その異世界的(?)な雰囲気も相まって、患者自身ですら己の病の神秘性に「酔う」ような感覚に囚われる事も儘にあるのだが、これこそ最も回避せねばならない事態である。これは、まず病気である。病気であるとすれば、治療法や改善例があるはずだ。そのような合理的発想を、患者(私)は一時期毛嫌いしていた。心が操作される恐怖を、二度と味わいたくないからであろう。既に、心が汚されてしまって、取り返しのつかない深い傷を負って、もう二度と元気なころの自分に戻ることは出来ない。そういう心理状況に於いて、「治療」という名のもとに、向精神薬睡眠薬気分安定薬抗鬱剤抗精神病薬など。またそれと同時に吐き気止めや、痛み止めの類も同時に飲む。胃腸や肝臓が荒れやすくなるからだ。)を摂取する事に(正真正銘の)生理的嫌悪感があった。

 

 風邪を引いた、腹を壊した、歯が痛む、関節が痛い、骨が折れた。そういう類の病気の場合、患者が痛み止めや抗ウイルス薬を拒むことがあるだろうか。信条として自然治療しか受け付けない人も居るだろう。だが、普通はまずそういう状況は考えられない。病気とは今この瞬間の救いだけが問題なのだ。この痛み、吐き気、苦しみから解放されるには薬、施術、手術しかないと信じるからだろう。だが、精神的な病は、自己管理能力が元々高い人間ほど、つまり真面目で、根が丈夫で、自分の事を人に任すことが嫌いな独立心の高い人間は、薬とは「甘え」であり、入院とは「懲役」ないし「落伍」以外の何物でもない。

 

 正常な判断が出来ない。それは恐ろしいことである。正常と異常の区別が段々付かなくなってくる。これくらい人を不安にさせるものもない。私は一体治っているのか、悪くなっているのか、現状維持しているのか、全然実感が伴わない。もうすぐ二年近く病院通いを続けているが、段々と良くなっているのか、これ以上良くならないのか、これがリミットなのか、いやそもそも私の病気の名前は結局なんだったのか、それすらも分からない。(事実、私は今自分が何病なのか担当医からハッキリ伝えられていない。それが私を一層混乱させる恐れがあるからだろうと思われるが、私は知りたい。これが「知る権利」と呼ぶべき事態なんだろう。)

 

 病名とは、固有名詞である。それはあくまでも言語的表現である以上、記号的役割を担わされている。「うつ病」にせよ、「躁鬱病(現在では双極性障害という)」にせよ、「適応障害」にせよ、「新型うつ病」(「ゆとり世代」と並ぶ、現代のキラーワードである)にせよ、それには固有の社会的文脈を背負っている。言葉は必ず対象を求め、対象は必ず位置を求め、或る対象はまた別の対象と並べられることで比較され、相対化され、より大きな対象の支配下に置かれるか、体系から外れて孤立化するかのいずれかであろう。私は、自分の天の邪鬼な気質が、治療の妨げになっていることを自覚している。自分だけは特別な存在なのではないか、平凡な人間にはない特質や才能、感性、独自性を備えているのではないか。人には出来ない事が出来るのではないか。或る種の(いや、諸に)選民思想が働いている。その真偽を考える以前に、そういう極めて利己的な、著しい自己愛が私の中に巣食っていることを認めざるを得ない。

 

 仏教に出会って本当に良かったことの一つは、この選民思想を無に帰せしめる方法を教えてくれたからだ。私から主体性を完全に奪ってくれたからだ。「主体性」など存在しない。それにすら気が付かない位に鈍感で、欲望に塗れている、どうしようもない存在であるにすぎないと教えてくれたからだ。それは、大変ありがたい御指摘だった。醜いと思って居る自分も、醜い自分も、どちらも居ない。それが真理だ。だが私はその真理には遂に到達し得ないのだ。この醜さ、愚かさから逃れられないことは、寧ろ私を勇気づけた。有難い。己を知る。こんな遣り甲斐のある仕事は他に無い。そう思った。弱い自分に向き合うためには、一度私という固定観念を破壊しなくてはならなかった。そういう逆説を、私の天の邪鬼な気質も相まって、私の体の全部、心の全部が、その思想、空の思想を受け入れた。

 

 私は気がついた。苦しんでいる時の姿勢が、ほとんど祈りの姿であることを。私は、いつからか、魂の存在を前提とすることに何の苦も感じなくなった。そうだろう、と思う程度である。

 

 私は天才ではない。また、私は平凡でもない。私は特別ではない。また、私は普通でもない。私は定義することが出来ない。また、私は定義する必要を備えていない。私はこの世に一人しかいない、絶対の取り換えが効かない人間である。また、仕事とは一般的にその人でなければならないという絶対の必然性は無い。寧ろ、誰でも出来るように組織作りをすることを求められている。

 

 長くなってしまった。要するに、私はもうくどくどしく語ることを諦めようと思う。

 

 まずは、ブログの投稿頻度を落とす事。何か(何百回も考えたことについて)思いついてもノートテイクしない事。観念的な遊びに興じない事。プライベートな空間だからといって直ぐに淫らにならない事。私は特に独りになると恥の観念を失い勝ちである。程好い緊張感、自己を律しようとする心根、背後の眼を感じ取る心(それはやはり魂の実在を前提にして置かねばならないが)を保守せねばならないだろうと思うに至る。

 

 分かり易く言いたい。私は、本から、音楽から、映画のスクリーンから、手紙やメールの文面から、電話の受話器から聞こえてくる声から、思い出した事や、今日出会った人々の顔や表情、声、仕草、悪意、善意、配慮などを感じ取る心を失いたくないのである。感情の鈍麻だけなんとかしてでも避けたいのである。それは死ぬことだから。魂を渡してはならない。どんな時でも。それが言いたい。本当に、それだけは今、明確に断言できる。

 

 魂だけを忘れないで、生きて行けたらいいだろうと思う。いや、それは忘れられないからこそ実在しているともいえる。私は、遂に自分の魂が忘れられない、かけがえないものであるということに気が付いた。

 

 平凡への回帰である。