Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

堂々巡り、または反復型思考の意味と無意味さについて

 私は、このブログを立ち上げてからというもの、同一のモチーフについて幾度となく語ってきた。また、自分でも不思議であるが、その語り方すらも同一のものであって、つまり同じ問いに対して同じ答え方を提示することを止めようとしなかった。もしこの問いが数学の幾何学問題であったならば、私は極めて愚かしい、無益な、時間と労力の無駄遣いをしているだろう。または、この問いの回答期限日が設定されていて、仮に一ヶ月や二ヶ月の試行錯誤を許されていたとして、必ずしも明快で説得力のある答案を提出せずとも、思考の過程を具に鑑みて判断するタイプの試験であったとしても、私はこの問いに対して、凡そ三年の月日を費やしたにも関わらず、問いに向かって前進しているのか後退しているのか、上昇しているのか下降しているのか、接近しているのか遠のいているのかすらも感覚の上で掴むことが出来ないでいる。

 

 私の問いとは何であろうか。私はもう自分が何を問おうとしているのかすら忘れかけている。それがどのような種類の学問分野の領域に収まるのか、哲学、宗教学、人文思想、自然科学、社会科学、またはもっと身近な学問らしい存在であるところの常識や良心といったものなのか。私は、幾度もノートを買って来ては、そこに思いの丈を書き連ね、時に写本をしたり、朗読したり、詩作に耽ったり、音楽の世界に没入したりして、安心を求めようとしたが、全ては一時凌ぎの手段に過ぎなかった。私の迷いは最初の想定よりもずっと根深く、解決困難で、恐らく一生を賭けて思考を巡らしたとしても満足することはないだろうと確信するようになった。

 

 「諦め切れぬと諦めた」という諺がある。そのような心境に近付いた気もする。または、興味の対象が小説や映画やポピュラー音楽などの大衆文化から遠ざかるようになってしまった。私はアフォリズムというものが好きになった。エリック・ホッファーというアメリカの哲学者の言葉が好きになった。シモーヌ・ヴェイユというフランスの哲学者の言葉も分かるような気がした。またはニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読んで、彼こそギャングスタ・ラップの始祖であると確信めいた思いを抱くようになった。小林秀雄三木清岸田秀といった学者や作家の言葉も理解できるような感覚があった。ベルグソンフロイトスピノザホイジンガ、ブレイク、エマーソン、魯迅。大学の頃の不勉強な自分と比べると見違える位、古典に親しむようになった。

 

 反復型思考に意味が有ったとすれば、古典と伴に祈るという精神態度が身に着いたことである。同時に、その無意味さは祈りの言葉が空語になる瞬間である。決意をもたらす言葉、勇気づける言葉、浄め癒す言葉。だが、言葉の力はここまでである。私が本当に古典に帰るのだとすれば、つまり古典を信頼し、それを拠り所にして、知己のように心を通わすのであれば、実行という形態によって表現をせねばならない。本を読むとは、または、言葉の力を信じるとは、それを空語にしないことであろう。それは政治的なスタンスを表明することであるかもしれず、敢えて表明しないままに運動に参加することかも知れない。または、全く政治的な事柄から離れて、自由闊達に発言し、何事かに関与することかもしれない。効果について私は必ずしも明確に理解している訳ではない。だが、犠牲無き信仰というものが存在し得ないように、実行無き決意というものもまた存在し得ないのだ。