Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

禁欲的・独善的・抒情的

 この街が嫌いだ。どの道を歩いてみても転がっているのは踏みつけられたガムの黒い染み、誰かの嘔吐、雨風に晒されたコンクリートの悲しみ、吹きさらしの屋根、磨かれていない鏡、誰も居ない自動車講習所、不必要なまでに整えられた商品の棚、パトロール中の交番、老婆の乳母車、黒いバックパックを背負った人々、下顎や脇腹や太腿に蓄えられた脂肪の固まりとその白いこと、プラスチック製のコップ、浮かない顔、寂しげな顔、虚ろな顔、塞ぎ込んだ顔、血走った眼、必死に盛り上げようとする口元、忙しなく動き続ける体、置き去りの心、在り来りな会話、無意味、無感動、無価値、無目的、無理矢理で投げ遣りで自堕落なライフスタイル、構造化された車内、商品化された欲望、古びた思想本、スマホ中毒、健康という病、見えない会社、見えない労働者、見えない仕事、見えない合理、見えない対価、見えない何か、ムード、気運、火照り、盛り、熱意、怒り。

 

   この町が嫌いだ。私はどうしたって抒情的になり、愚痴っぽくなり、せめてそれを現代詩のような、吉野弘さんのような詩を書いて、それを誰かに読んで貰って、受け取って貰って、飾って貰えたらと思う。私は言葉の他に何も所有していない。あなたも、彼(女)も、そうだろう。そうだった筈だ。この町で出来ることは限られているのに、なんでそんなに前向きになろうとしているのか。歯の浮くような社交に終始しているのか。または、何を一生懸命になっているのか。価値を生み出そうとしている。それはもはや価値ではなくて高貴な遊びですらなく、場末のメダルゲーム機のようなものだ。どこまでも、どこまでも、増えて、減って、少し増えて、減って、また増えて。感興ということを忘れてしまったら、遊びは遊びではなく、悦びは悦びでなく、悲しみは悲しみでなくなる。意図は記号化され、記号はルールを求めて、一般化を目指す。その先にあるものがこの現実であるのに、どうして同じやり方を採用するのか。

    考えるのを放棄しても生きていける世の中だ。それは、本当に生きていることなんだろうか。それは、本来の「公共の福祉」であるのか。または「公共」ということの意義はどこにあるのか。誰も来ない交差点にずっと立って居て、そこに公共性など求めようはずがない。

    私と似ている生き物を、大事にしようと思うのならば、私は先ず私という生き物を大切に扱わねばならない。大切に扱われる、ケアされ、温められ、もてなされ、与えられ、適度に躾られ、見通しのよい所に連れて行ってくれて、珈琲を頼んだら水もどうぞ、つまり、思いやってくれる機会がなければ、私は自分に優しくしようとは思わない。(セルフネグレクトこそ私の大問題である)それが、私はよくよく理解した。私を一方的に傷付ける人や物や事があった時、私は一方的に許すのであるが、それは何より自分の幸福を失いたくなかったからである。許す者になれば、相手は自然に許された者になる。私がこの関係の主人である。私が許し、お前は許される、そして私が許さねばお前はいつまでも苦しむ、それを憐れむ気持ちは、ひとえに私の幸福の大きさにかかっている。

 

    私はこの町で生きている。そして、尚、私は幸福である。私はこの町を許したのだ。